「月は二度、涙を流す」そのC


第二章

 地下の駐車場の端の方に、関係者以外立入禁止と書かれた扉がある。扉の端の方が錆びかかっていて、普通の人ならば殆ど見過ごしてしまいそうな扉だった。望はポケットから鍵を取り出して、ノブの鍵穴に差し込む。鍵はガッチャリという音と共に外れ、扉が開いた。中から背の高い男が顔を出す。黒いスーツを着て、サングラスをかけているが、顔立ちははっきりと見えた。
 端麗な顔だったが、右目が潰れて無くなっていた。
「札を見せてください」
 望は男に十五番と書かれた札を見せた。男はそれを少しの間凝視していたが、やがてお入り下さい、と望にお辞儀をした。
 中は外と違い、美しく装飾されていた。大きな部屋が一つだけあり、そこは望達の住んでいる屋敷の一室と変わらない程、見事に西洋風な飾りがなされている。そこに一人だけ女の子がいた。喪服のように白いYシャツに黒いスカートをはき、柔らかそうなソファに腰を降ろしている。望と恵美に気づいた少女は、顔を上げて望を見た。
 その瞬間、望は背中が凍り付くような感覚を覚えた。本で見るよりもずっと、その少女は光に似ていた。
「‥‥‥‥‥」
「本当によく似てるわね。姉妹って言っても誰も疑わないかも」
 望の後ろから恵美が顔を出し、目を丸くする。少女は何も分かっていないのだろう、きょとんとした顔で二人を見ている。その顔を無言で見る望。
「十五番の子と言っても、残っているのは彼女だけです。早く連れていって下さい。この子がいなくなったら、ここは再び施錠しますので。あとお金の方ですが‥‥」
 後ろからサングラスの男が急かすように言った。恵美は目を細めて男を見返す。
「分かってるわよ。少しぐらい待ってなさいよ。お金なら、いつもの口座から卸しておいて」
 しかし、二人のやり取りなど、望には聞こえていなかった。望は瞬きをするのも忘れてじっとその少女を見つめていた。
 母が亡くなった時、目を真っ赤に腫れ上がらせて泣いていた少女。人懐っこく自分の後ろをついてきながら山登りをした少女‥‥。
 今、目の前にいる少女は、あの時の少女と同じだった。いや、正確に言えば違う。この少女は、母を亡くした時も泣かず、自分と一緒に山登りもしていない。そんな事は頭で分かっていたのに、望は昔の光の姿と重なり合わせずに見る事が出来なかった。
 いつから実の妹を愛するようになったのか、それは間違いなく三年前の母を亡くしたあの時だった。あの時から、あの屋敷は外の世界とは隔離された世界となった。
 当時はあの屋敷に住み始めたばかりだった。その時はまだ優香も恵美も真一郎もいなく、望と光、そして実の母、あとは数人の使用人しかいなかった。母が死んだ時、昇は仕事で家にいなかった。使用人も涙を流してはくれなかった。光と望だけが母の最期を見守り、二人だけが泣いた。二人だけで抱き合い、枯れるまで泣き続けた。
 その時、望は光が何よりも大事になった。それは昔までの妹、唯一の兄妹としての大事とは、何かが違っていた。唇を重ねたくなる衝動、項に触れたくなる衝動、肌と肌を密着させたくなる衝動。
 あの時から、望にはそんな感情が芽生え始めた。日を重ねる毎にその欲求は募っていった。しかし、優香が家に来てから昇も家に顔を出すようになり、恵美や真一郎もやってきた。その為、望は光と二人っきりで過ごす時間を減らす羽目になった。
 しかし、何よりも光には望に対する愛が無かった。兄として慕う気持ちはあった。だがそれは当然ながら、異性としての愛にはならなかった。それが、望に行動を起こさせなかった。
「‥‥」
 しかし、目の前にいる少女は光ではない。光と同じなのに、光ではない。望は心のどこかに言い知れぬ虚無感があるのを感じながらも、この少女ならば、という期待感も確かに持った。
 望はゆっくりと少女に近づいた。そして、不思議そうに小首を傾げる少女の前に立て膝を付き、その細い手の甲に口付けをした。それを異形の目で見つめるサングラスの一つ目男。
「‥‥珍しい方ですね。買った少女にひざまずくなんて‥‥」
「変わった男なのよ、いい男だけどね」
 恵美は仕方ない、と言った感じで笑った。その笑い声さえ、今の望には聞こえなかった。


 人工の光の無い外は、もう殆ど夜の帳が落ちている。星と月の瞬きが、森を微かに緑色に染めている。夜七時になっても望と恵美は帰ってこなかった。
 仕方なく、優香と光と真一郎の三人は有り合わせの食材で夕食を作り、望と恵美無しで食事を始めていた。昇がいる時は恵美と真一郎は光達とは別々に食事をしていたが、この巨大な屋敷の中では何かと淋しいものだった。だから、昇がいない時は優香は恵美と真一郎も食事を一緒にする事にしていた。光も望も、それを拒まなかった。
「兄さま、随分と遅いんですね」
 福神漬の無いカレーを食べながら、光が誰に言うでもなく呟いた。
「あの年齢の人は皆、都会に住んでいるものよ。色々と興味が出てくるんでしょう」
 時折窓の外に気を配りながら、優香は楽しそうに答える。それを面白そうに見ている真一郎。真一郎は望と恵美以外とはあまり言葉をかわさなかったが、決して光や優香が嫌いなわけではなかった。ただ、話す機会が少なかったから話さなかった。それだけの事だった。
「でも何だか、この三人で食事をとるのって、珍しい事ですよね」
 そんな真一郎が光に向かって言う。光はそう言えばそうですね、と子供っぽい驚き顔を真一郎に向けた。
 望が光を愛しているという事は、当然ながら真一郎も知っていた。それはこの前のパーティーの時でも望が話していた。だから、真一郎は光に手を出すという事はしなかったが、もし向こうから誘ってくれば決して断ろうとは考えていなかった。本心を語れば、隙あらば光の体も一度は味わってみたかった。
 もう、望の体は知っていた。望の体は男とは思えないほど、滑らかで心地良かった。望がマリファナで完全に正気を失っていた時、真一郎は望に自分の性器をしゃぶらせた。その時に味わった感触は、恵美とは明らかに違っていた。ぎこちない、その初々しい舌触りは女とは違い、少しざらざらしていたが、格別な快楽があった。そして、望の口の中で射精した。
 気怠そうに白い液体を吐き出す望は、恐ろしい妖艶で美しかった。これが本物の女だったらもっともっと気持ち良くなっていただろう。だから、光の体も知ってみたかった。
 しかし、例えどんなに心地良くても、恵美には勝てない事は分かっていた。恵美は自分の事なら全て知っている。好物から、それこそ性感帯まで全てだ。恵美は自分の思った通りの事をやってくれた。あいつ程、自分を満足させられる奴はいないし、同時にあいつを満足させられるのも自分以外にいない。
 だから、例えどんなに光の体がいいものだとしても、自分は決してあの女から離れる事は出来ないだろうな、と真一郎は光をぼんやりと眺めながら考えた。
 窓の向こうでエンジンの音がした。同時に窓から一筋の明かりが漏れる。光は席から立ち上がり、窓の外を見る。車のライトが闇の向こうで門を潜っていた。光はどんなもの買ってきたか見たいから、と子供のような理由を言って食堂から出ていってしまった。真一郎と優香は互いの顔を見合わせて笑う。
「十六歳ってあんなに子供でしたっけ?」
「彼女だけなんじゃないかしら?」
 玄関の方が騒がしくなる。それを楽しそうに耳をそばだてて聞く二人。そんな時、ふと優香が口を開いた。
「ねぇ、真一郎さん」
「何です?」
 真一郎は意外と言った感じで、顔を向ける。そこには意味ありげな笑みを持った優香がいた。
 真一郎の背筋が刹那冷たくなる。優香の瞳は望も感じていた、あの何もかもを見透かすような、見る者全てを石に変えるメデューサのような眼光だった。それを真一郎も感じ、体全体が痺れるような感覚に陥る。
「今日はどんな子、買ってきたの?」
 それを聞いた時、真一郎の心臓は止まりそうになった。急にむせ返り、スプーンを床に落としてしまう。その様子を、優香は嬉しそうに見つめている。まるでこうなる事が簡単に予測できたような、そんな感じだった。真一郎は目を挙動不審にキョロキョロと動かしながら、震える口を無理矢理こじ開ける。何か言わないと。そんな思いだけが先行していた。スプーンを拾うという事まで、頭が回らなかった。
「なっ、何を言っているのか、よく意味が分からないんですが‥‥」
 懸命に戸惑いを隠そうとしている真一郎を、優香は眉一つ動かさず見据えている。笑っているが、瞳だけがまるで暗闇の中の豹の眼のように、光っている。
「光さんは鈍い子だから気づいてないでしょうけど、私は何でも知ってるわよ。昨日の夜も昇さんがいるのに、随分とお盛んだったじゃないの。別に小さな子を買ってくるのは悪い事じゃないと思うわ。ここに来れただけでも、彼らはある意味幸せですものね」
 真一郎の心臓の高鳴りはいつまで経っても止まなかった。焦りを無くそうと努力すればするほど、それは露骨に表情に現れてしまう。
 この人は何を言っているのだろう。証拠という証拠は自分と恵美がいつも完璧なまでに消していたはずだ。パーティーの時も、ちゃんと他の人が眠っているのを確かめてやっていた。優香や昇の目を盗んで、あの部屋に防音装置まで取り付けた。なのに何故、この人は知っているのだろう?
 真一郎には今、目の前で優香が怪しく微笑んでいるのが信じられなかった。焦りで疑いの表情まで顔に出ている事に気付かない程に動揺していた。
「それでね、一つ頼みがあるんだけど聞いてくれない?」
 体を少し前に乗り出して、優香は出来る限りの笑みを見せた。しかし、真一郎はそれを見ても全く心が休まらなかった。一体次は何を言うのか。どんな事を言うのか。緊張と動揺が思考力を低下させ、真一郎は自分で何を考えているのか理解出来なかった。ただ、この人にはどんなに隠そうとしても無駄だ、という諦めだけがはっきりと分かった。
 しばらくして、光が食堂に戻ってきた。手には光の胴体程の大きさの熊のぬいぐるみが抱えられていた。そして満面の笑顔ではしゃぐ。
「大きなぬいぐるみだと思わない? 私、気にいっちゃった」
「本当に良かったわね」
 そう答える優香は、いつもと何一つ変わらなかった。


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